末期癌と闘われる方々への
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難病末期癌からの生還~タイトル画像小

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肺がん末期・完治改善報告

末期癌克服への架け橋区切り線

義父、昭和3年生まれ、昭和56年に胃を3分の2切除。酒タバコ甘い物好き。平成4年肝炎で入院、以後酒を止める(時々飲んでいた)。平成12年、初期の糖尿病と診断。食事制限で甘い物も止める(時々内緒で食べる)。

そして平成13年6月、肺腺癌、それもかなりの勢いで増殖する悪質な物との結果。水がたまって肺が溺れてる状態で、その上心臓にも負担が掛かりがんで命を落すよりも先に心臓が機能しなくなる恐れもあると聞かされました。不幸中の幸いは転移が無かった事ぐらい。余命は2ヶ月、「お盆までもつかどうか」医師から当時そう宣告されました。

しかし病院治療とアメリカUCLAで研究の医療機関向け免疫賦活物質A.M.Dによる免疫力強化で、平成13年10月、レントゲン検査では影は完全に消え、翌月見事退院。退院の時、主治医が「ここまで完治して退院した患者は初めてだ」と義父を抱きしめ喜んでくれました。

義父は運が良かったのでしょうか。決してそうじゃないと思います。「自己治癒力」漠然とした物ですがケガをしたらカサブタが出来て治っていきます。癌だって自分で治す力が備わっているんです。その力を100%発揮できるように今までの生活を見直す事も大切だと思いました。

これを読んでくださった方、余命2ヶ月といわれても十分間に合いましたよ。このHP「難病末期癌からの生還」とSarahさん、応援してくださった皆様に感謝します。そして今病と闘ってる皆様、生きる力を信じて頑張って下さい。
 

今思えば長いようでアッと言う間の出来事。

殆ど記憶に残って無い状態でしたが義母が毎日付けていたノートを提供してくれたので順を追って書いていきます。

義父、昭和3年生まれ、56年に胃を3分の2切除。酒タバコ甘い物好き。平成4年肝炎で入院、以後酒を止める(時々飲んでいた)12年、初期の糖尿病と診断、食事制限で甘い物も止める。(時々内緒で食べる)

そして平成13年春

義母が変な咳きが止まらない義父に、「肺がんかも知れないから」と少し脅かすようにして病院で調べてもらうように何度も言ってたそうです。ですが義父は肝炎と軽度の糖尿病で定期的に通院してるにも関わらず、医者に何も言わなかったのです。

多分「本当に癌と言われたら・・・」と不安だったのでしょう。

しかし5月に入り、ひどくなる咳きに加えて少し痩せてきたと義母が言いだし、義父は糖尿食でカロリー制限してるからその影響じゃないかと言って抵抗していましたが、義母付き添いのもと病院で調べてもらう事になりました。

6月1日

残念ながら義母の思いが的中。左肺の半分に大きな影と水が溜まっていました。医師の診断は心臓に近い場所にある為手術は出来ないと諦めムード。数年前に叔父がその病院で食道がんで入院し、とりあえず手術、とりあえず抗癌剤といった感じの治療で、辛い思いをして亡くなっています。とてもその病院にお任せする気にもなれず、呼吸器内科もなかったので別の病院に紹介を頼みました。

6月4日

紹介された病院でも結果は同じ、医師の話し方が「今更どうしょうもない」と突き放すような感じに受け取った義父は「この病院には入院したくない」と言い、私たち家族も同じ意見。

6月5日

病院から預かったレントゲン写真や検査結果などの書類をそのまま持って大阪の別の病院に。そこで、主に肺がんを専門に研究されてるという医師と病院を紹介され、その場で連絡を取って頂き、その日にお会いする事が出来ました。今までの医師とは違い義父や一緒に行った義母、長男である私の主人も信頼できる方だと思ったそうです。これはとても大切な事でした。安心して治療を受けるのと不安を抱くのとでは免疫力を高める為には大きな違いがあるからです。病院探しと並行して癌に有効な物はないかとあれこれ捜し求めました。抗癌剤で癌が治るなんで思っていません。むしろ辛い思いをして体力を失うぐらいなら何もしない方が良いとさえ考えていました。とりあえず思いついた水溶性アガリクスとメシマコブを購入しました

6月6日

早速その病院に入院。この日から細かな検査が始まりました。本当に抗癌剤治療をして良いのか悩んでいる時、主人がこちらの「難病末期癌からの生還」HPを見付けました。Sarahさんの癌に対する考え方や理に適った対処方法に共感し、納得した主人は早速、ドクターが実際の医療現場で使用する医療機関向け免疫賦活物質と医療補助用酵素を取り寄せ、抗癌剤治療も受ける事にました。

6月13日

アガリクス・メシマコブと合わせて医療機関向け免疫賦活物質を1日3袋、酵素を朝1袋を飲み始め、他に粉末の青汁を朝食に出る牛乳に混ぜて飲み、水もミネラルウィーターから海洋深層水に替えるなど義父には色々飲んでもらう事になりました。

6月20日

検査結果が出ました。肺線がん、それもかなりの勢いで増殖する悪質な物。水がたまって肺が溺れてる状態で、その上心臓にも負担が掛かり癌で命を落すよりも先に心臓が機能しなくなる恐れもあると聞かされました。不幸中の幸いは転移が無かった事ぐらい。余命は2ヶ月、「お盆までもつかどうか」医師からそう言われました。

6月26日

1回目の抗癌剤投与。月に1回、計4回の予定で治療が始まりました。副作用は2日後に現れ体がだるく手足がしびれ食欲も落ちましたが、少しは食事を取るように頑張ってくれました。毛もパラパラ抜け始め4日後当たりから徐々に元気を取り戻し義父もこの程度なら治療を続けられると思ったようです。

7月6日

初めて外泊許可が出たので帰宅、少しでもくつろいで好きな物を食べて貰おうとしたのが逆効果になり翌日の夜腹痛を訴え病院に戻りました。以前にもなった事のある腸閉塞です。手術とまでは行かなかったものの下痢と嘔吐を繰り返し、それから約1週間飲まず食わずの腸閉塞治療となりました。その間も見る見る広がっていく癌細胞。抗癌剤の成果もまったく無く、医療機関向け免疫賦活物質も飲めず家族も医師も手も足も出せないイライラした日々を過ごす事になりました。

7月13日

ようやく重湯を飲める許可が折りましたが15日まで点滴は続きます。これまで食べる物に注意をしてきたつもりでしたが、この事をきっかけに外泊の時の家での食事は砂糖・揚げ物・動物性食品などを出来るだけ避け、畑で取れた野菜中心の食事を徹底しました。3度の食事も差し入れる話しが出ましたが物理的にそこまでの管理ができません。義父もヒモジイ経験の反動からか今まで以上の食欲。病院食では物足りないというので毎日蒸かしたサツマイモをおやつとして食べてもらう事になりました。ですが家族に内緒で売店で好きなお菓子を買って食べる事もしばしば。

7月18日

毎日誰かが病院に行くのですが、この日は誰も来ないと思い義父一人で近くの郵便局まで外出。心臓の事もあって医師には誰かが付き添うように言われていたで家族の者は義父に叱りました。ですがこんな状況で趣味の記念切手を買いに行こうという気になるでしょうか。趣味の専門雑誌を読んだりカセットで好きな曲を聴いたりもしていました。もちろん義父は自分が肺がんだと知っています。レントゲンも見ました。でもまだ一年は生きれるだろうと思っていたようです。楽観的な義父の態度に私達家族も勇気付けられていたのかもしれません。

ですが時々不安そうな顔をします。来年の話しもしません。それが何も言わない義父の本心だと思いました。望みを託した抗癌剤も効かなかったこの時期、「短い命なら好きな事を・・・」、「頑張れば癌に打ち勝てる・・・」そういう思いと「あの時頑張っていれば助かったかも・・・」、「あれだけ辛い思いするなら好きな事をさせて上げれば良かった・・・」と後になって後悔しない為にどうしたら良いのか、一番悩み苦しんだと思います。

7月26日

重湯が飲めるようになってから1日1回の酵素を3日に増やしたのが良かったのでしょうか、義父の体調を考えれば早い回復力で、ようやく2回目の抗癌剤が投与されました。ですが1回目の肺がんに有効とされていた物では効果が無かった為、今回は主に子宮がんなどに使われ、稀に肺がんにも効果があるとされる物。3週に1度、4回の予定での治療です。心臓に負担を掛ける事があるため心電図などでモニターしながらの投与が始まりました。副作用は3日目から出始め、体のだるさ・足の痛み・便の出が悪くなる・食欲不振など。体調が良く無い時、水溶性アガリクスの匂いが鼻について飲む事に抵抗を感じ始めました。腸の働きも悪く、少し食べ過ぎても調子が悪くなり、薬を飲む水さえ負担になると言いながらも酵素と医療機関向け免疫賦活物質はきちんと飲み続けてくれました。

入院してから毎週月曜日にレントゲンを取っています。最初の病院から預かったレントゲン写真と入院後の写真を見比べても肺に写る影が大きくなっている事は一目瞭然。この頃肺の影は3分の2までに広がっていました。義父の咳きはまだ続いてます。今回の抗癌剤投与後のレントゲン写真は前回とあまり変っていませんでした。良く言えば止まっている・・・小さくなったような気がすると主人が私に話してくれました。

同じ病室の人で副作用が酷く堪えられないと退院した人、1週間嘔吐を繰り返し体重が激減した人がいました。そういう人達を見て義父も私達も「医療機関向け免疫賦活物質のお陰で辛い副作用も半減してる」それに「抗癌剤や癌にも負けない力もついているんだ」そう確信しました。普通癌に侵されると体重が減ると聞きますが腸閉塞で体重が10キロ近く減ったにもかかわらずその後は徐々に体重も増えてきました。抗癌剤を変えてから3週ごとに2回目、3回目と順調に行き、レントゲンの影も小さくなっていきました。投与後10日頃に白血球が2000を切るまでに下がりますが、それも薬の力を借りずに増えていきました。

9月5日

3度目(計4回目)の抗癌剤が投与。この頃、副作用なのか10日間ほどの発熱と体のだるさがありました。私は1度もレントゲン写真を見ていません。そこで13日にCTを取ったのを見せてもらいました。医師は「お父さんも一緒に」と言うのでちょっとビックリしました。抗癌剤を変えてから調子が良いとは聞いていましたがハッキリした説明が無かったからです。入院した時の写真と今の写真を並べ説明してくれました。親指の先ぐらいの大きさまでになっていると。ただ心配はこれが完全に消えるかどうか、少し残った時、増殖の早い癌細胞にどう対処するかが問題でした。

9月27日

4度目が投与。今回も発熱が続き点滴を受ける事になりましたが医師からは稲刈りの季節までには退院出来そうだと言われました。家が田んぼをしてると思ったのでしょうか?とにかく嬉しい知らせです。

10月23日

この時点ではレントゲンに影は殆ど写っていませんが実際にはどうか解かりません。念の為にもう1回だけ抗癌剤を投与する事になりました。これまでに義父は「体がだるい」「食欲が無い」などは言ってましたが大抵の場合「対した事無い」「調子良いわ」と元気のある所をアピールしていました。とにかく弱音を吐かず、くよくよせず、前向きな義父だったから腸閉塞という副産物を抱えても乗り切れたのだと思います。

11月12日

無事に退院する事が出来ました。今考えたらアッという間の5ヶ月で何がなんだか解からないうちに過ぎてしまいました。実家の父が良く言います。「人は病気で死なない、寿命で死ぬんだ」って。それを義父が証明してくれました。退院の時医師が、「ここまで完治して退院した患者は初めてだ」と義父を抱きしめ喜んでくれました。

この「難病末期癌からの生還」HPやSarahさんからのメールでアドバイスをいただき、混乱した頭の中が整理された事、抗癌剤が体に負担を掛ける物だと否定するのではなく、医療機関向け免疫賦活物質A.M.Dの合わせ技で治療を進めれば良いと自信が持てた事で、義父に対しても不安を与えずにこられたのだと思います。

今は月に1回の定期検査に病院に通っています。普段の生活も車を運転して買いものに行ったり、園芸仲間と品評会に参加したり忙しく動き回っています。

義父は運が良かったのでしょうか?決してそうじゃないと思います。「自己治癒力」漠然とした物ですが、ケガをしたらカサブタが出来て治っていきます。癌だって自分で治す力が備わっているんです。その力を100%発揮できるように今までの生活を見直す事も大切だと思いました。

これを読んでくださった方、余命2ヶ月といわれても十分間に合いましたよ。このHPとSarahさん、応援してくださった皆様に感謝します。そして今病と闘ってる皆様、生きる力を信じて頑張って下さい。
 

皆さんからご質問の多い
「医療機関向け免疫賦活物質A.M.D」の詳細については
以下ページに情報をまとめてあります。
ご参考になさって下さい。
父や同級生、末期癌を完治させた皆さんが使用した
医療機関向け免疫賦活物質や医療補助用酵素について