98年8月のある金曜のことです。義母から涙声で、義父が肺がんのかなり進行した状態であると診断されたという電話がありました。義父の年齢は71歳ですが、まだ化学分析を担当する仕事の第一線でがんばっている人です。当初は息切れがするので心臓かと想いかかりつけの医院へ行ってレントゲンを撮ったところ医者も驚くような直径3センチ以上の影が左肺にあり、紹介を受けた市民病院での検査の結果第3期の進行中の肺がんであると診断されました。主治医の話によると「手術ができない場合、長くても3ヶ月、手術して抗がん剤を使用すればもう少し延命できるだろう」との冷たい答えで、「早速抗がん剤治療を始めたいので、本人に病状の説明をして治療の了解を取りたい」というような態度でした。さらに、このときの義父は投薬による糖尿病の加療中でしたが、「その治療はもう必要ないから好きなものを食べさせてあげなさい」と言うやりとりもあったそうです。
この話を聞いて、医者の対応についていくら真実を伝えるとはいえ冷酷な宣告に憤りを覚えるとともに、単にマニュアルの通りに抗がん剤、手術、放射線、…万策つきてお気の毒…と進みそうな安易とも思える処方の犠牲にはなりたくないと思いました。
私の考えでは癌の場合外科手術では患者の体力を消耗し、免疫力をさらに弱め、転移の危険性も増すものであり、抗がん剤は厚生省認可の正式薬(毒?)ですが、癌に打ち勝つものではなく増殖を遅らせるだけのもので、結局は死期を前にして苦しみを増すだけのもので、家族に対して何の希望も夢も与えてくれるものではありません。
実は私は27年前の中学生の時に母を食道がんでなくしています。このときも末期で、医者の言うままに手術をし、放射線と抗がん剤で3ヶ月の診断余命を8ヶ月に延命しましたが、その壮絶さは家族としてみているのがつらいものでした。あれから27年たちますが、未だに医学の世界ではさほどの進歩はなく、それよりも医者と製薬会社の関係や、医者の世界での上下の主従関係など良くなるどころか悪くなっているようにも見受けられます。若い医者は上司の指示を無視できず、製薬会社は金で病院や厚生省まで動かして薬の売り上げを伸ばす。患者への投薬や手術は単に保険点数のポイントでしか見えない。そういった医師達の言うなりに家族の運命をまかせる気になりませんでした。
そこで情報を求めたのが、インターネット、Niftyserveなどで関連情報を検索するという方法でした。そして予想通りAHCC,D-フラクション,BRP療法,米国UCLAにて研究中だった医療機関向け免疫賦活物質(一般市販品ではない免疫賦活物質A.M.D)などがその中でも有望な免疫療法と言うことが判りました。医療機関向け免疫賦活物質については価格もそれほど法外ではないことなどを確認し、このホームページ主催のSarahさんとも電子メールで入手方法などを相談の上、購入前にも入手先からご丁寧にサンプルと、各種の資料などが届き、家族にも内容を説明をし、これにかけてみようと納得した後、入手をお願いしました。
義父のほうも肺に癌が育っているという事実は知っておりましたので、手術できる場所ならば切除するということは覚悟していたようですが、その後の転移や再発を気にしていたようで、医療機関向け免疫賦活物質(=免疫賦活物質A.M.D)の存在と効用には早速同意して服用してくれることになりました。まずは本人が積極的になって服用してもらえるという点で、第1段階は通過しました。本人も以前は化学系の研究者でしたので、分子構造その他の送付された資料については興味を持って見てくれていました。
病院側ですが、8月はじめに初診をして以来、9月14日にでるはずの検査結果では生体検査が十分でないということで、また再検査を実施するような対応でした。こんなのろのろしていたら助かる患者も手遅れになってしまうと思われますが、こちらとしてはそんな結果を待たずに早速医療機関向け免疫賦活物質服用を開始することにしました。また先にあった抗がん剤治療の申し出は拒否し、放射線に関しては了承しました。
服用開始は9月中旬です。ここから毎日6包を飲んでもらいました。9月のはじめから体のだるさや、食事がおいしくないと言った体調の衰えを感じていた義父は幾分不安になっていたようですが、精神的な安心感も含めて1週間ほどで食事がおいしく感じる様になり食欲も普通(以上?)に戻りました。
9月下旬にようやく検査結果がでたものの、さらに手術前の精密検査が必要とかで検査入院をしたり、手術が可能と判断されてもベットが空かず、ようやく入院できたのは10月29日でした。これまでの間、検査入院のときも含めて毎日6包の服用を欠かしませんでした。この時点で、すでに最初の診断から余命宣告の3ヶ月が終わろうとしていました。
手術は98年11月5日、6時間あまりを要して左肺の1/3を切除する大がかりなものでした。その後3日ほどで食事も食べられるようになり、その時点から医療機関向け免疫賦活物質の服用を続けつつ術後のリハビリを受けましたが、医者も驚くほどの回復力で手術後の感染症もなく、傷口の回復も早く、3週間後の11月下旬には退院することができました。さらに年内は自宅での療養を考えていましたが、12月はじめからは仕事にもでるようになり、現在に至っています。現在は通院による放射線治療を継続して実施しています。
義母も一時は途方に暮れたと言っていましたが、医療機関向け免疫賦活物質で治療することで光が見えたといって喜んでくれています。本人も含め、家族も外科手術で病巣を取り出した安堵感で皆が明るくなりました。さらに免疫療法を今後も続けていけると言う期待感があるため、転移への不安なども少なく、本人も積極的になってくれているのが何よりです。今後どういう結果がでるにせよ、家族全体に希望があることが今後の義父本人の人生も明るくできるのではないかと思います。うちの家族は宗教には全く縁のない家族でしたが、信じることで救われると言うのはこういうことなのかと分かったような気がしています。
と書きつつ、最近では「喉元過ぎれば…」のたとえもあるように義父が服用を若干サボり気味になっているのを周囲の家族が脅かしたり、なだめすかして続けさせている状況です。元をただせば癌のできやすい体質になっていて、免疫力も落ちていたが故に癌が進行していたのが事実ですから、ここで服用をやめてしまったら元の木阿弥になってしまうことは明らかです。「次は肺でなくてとれないところに転移したらどうするの」と脅迫!しています。好きだった酒も少しずつ飲めるようになってきましたが、さすがにたばこには手がでないようです。今後は治療を再開した糖尿病をこの医療機関向け免疫賦活物質の服用によって改善できればと期待しています。
今回の肺がん克服の顛末で私の考えたことは次のようなことです。人間には運命と寿命がありますからいつまでも不老不死などとは考えませんが、「あと3ヶ月の命」などと軽く宣言されて、ハイハイと受け入れられるほど単純なものでもありません。こういう機会に家族が団結できたのはすばらしいことだと思っています。
余命3ヶ月というのは8月時点での医者の言葉でしたが、まさしく癌細胞にとっての余命宣告であったといまでは家族の笑い話になっています。
しかし、もし米国UCLA研究の医療機関向け免疫賦活物質に出会わなかったり、手術不可能な部分で抗がん剤と放射線だけの治療をこの3ヶ月していたら、義父はおそらくやせ衰えて哀れな姿で「闘病中」の現在があったかもしれません。最悪の状況では故人になっていたかもしれません。こればかりは比較できませんので「もし」になってしまいますが、「実行せずにあとで悔やむくらいならばできることをやってみて、それでもだめなら運命を受け入れよう」というのが私たち家族の結論でした。こういった結論までの過程や医療機関向け免疫賦活物質を服用してからの経過などは癌と宣告された方々やご家族の励みになると思いましたので、状況を述べさせていただきました。
本来ならば、具体的なCTスキャンの結果の差異などの物証を入手できれば良かったのですが、手術による切除までに癌が縮小したという痕跡はありませんでした。しかしながら、食欲が増した、回復力が医者も驚くほどに早かった、ふだんの生活にも予想以上に早く戻れた。などの状況証拠でしかご報告できないのが残念ですが、逆に効かなかった訳ではないと勝手に解釈しています。
ここに書ききれなかった感想はいろいろとありますが、同じ様な悩みをお持ちの方々にこういった例もあるということを知っていただきたく、また必要ならばご相談などのお手伝いをさせていただくのが私たちにできる運命への恩返しであると考えております。
「医療機関向け免疫賦活物質A.M.D」の詳細については
以下ページに情報をまとめてあります。
ご参考になさって下さい。
父や同級生、末期癌を完治させた皆さんが使用した
医療機関向け免疫賦活物質や医療補助用酵素について