末期癌と闘われる方々への
希望や勇気となりますように

難病末期癌からの生還~タイトル画像小

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食道がん末期+肺転移・完治改善報告

末期癌克服への架け橋区切り線

平凡な人生を一変して地獄に変えてしまうもの、その多くの原因は難病だと思います。今、癌保険のCMが多いのも、やはり多くの人々が年々それらの病気に侵されているせいだと思います。「自分達だけは絶対に大丈夫」そう過信するのが一番危険なのです。今回の件で私は大切な家族を失いかけ、身を以ってその事を思い知らされました。丈夫なだけが取り柄だった父が侵された病名、それは私達が今まで他人事の様に見てきた「癌」だったのです。

昔から不治の病でそれに侵されたら最後、あとは死を待つばかり…。そう概念を持っていた私にとって、それは正に地獄以上の恐怖でしかありませんでした。医学が進化した現在でも早期発見は別として、完全な治療法は無いとされています。母と私は信じられない事実に打ちのめされ、出口の無い暗闇の中を彷徨い続けていました。しかし、一筋の光が私達の暗闇を照らしてくれたのです。『奇跡』という名の光りが…。

『奇跡』よく耳にする言葉ではありますが、リアルさに欠け非現実的だと思っていました、今までは。しかし、それを信じないわけにはいかない出来事が次々と私達に起こりました。こうして、私が今まで体験してきたことを体験談という形で書き記すことが出来るのも、その『奇跡』のお陰です。この素晴らしいホームページ『難病末期癌からの生還』を目にした時から、私達の奇跡は始まったのです。そして、このホームページに私のような者の体験談を載せて頂ける事をとても光栄に嬉しく思います。

未熟で至らない文章の数々ですが、私の体験談を読んで少しでも同じような苦しみを抱えている方々の勇気と励みになればと思っています。
 

奇跡を信じて―亡き祖父がくれた勇気と希望―

父が食道がんだと医者から告知されてから一年が経ちます。この一年の歳月は私達家族にとって本当に激動の日々でした。悪夢でも見ていたのではないかと思うほど、本当に辛く悲しく信じ難い出来事の数々でした。今となっては自分達がどう生きてきたのかさえ判らないくらいです。まるでドラマのような出来事が次々と起こり、平穏だった日々が一転して奈落の底へと崩れ落ちました。お酒が大好きで昔、膵臓を少し患ったくらいで他は至って健康な、体力だけには自信のあった父が、まさか癌なんて恐ろしい病気に侵されるなんて本当に信じられませんでした。予想もしていなかった事態に母も私も愕然とし、毎日ただ泣き暮らすしかありませんでした。癌に対してあまりにも無知で無力すぎる私達は、どうしていいのか判らず毎日途方に暮れていました。

事の起こりは昨年、平成12年3月中旬頃でした。「ちょっと喉が痛いなぁ」と父が何気に言いました。最初は風邪でも引いたのかと思っていましたが、半月ほど経ってから今度は「何か物が痞えるみたいなんだ」と喉の不調を言い出しました。魚の骨でも痞えているのだろうと思っていたのですが、数日経ってもそれが消えないと言うので、母も私も病院へ行くことを勧めました。平気だと笑っていた父でしたが、母と私は何だか嫌な予感がしたので必死で説得し、父を耳鼻科へ行かせました。結果は、耳鼻科の範囲内ではただ赤く腫れているだけでした。しかし、それより下は判らないので内科で診てもらった方がいいとのことでした。その後も父は喉の不調を訴えました。…ただの腫れにしては何か変だ。しかも普段我慢強く、めったなことで痛がる人ではないのに…。本人は大丈夫だと言いますが、母と私は物凄く嫌な予感がし、早急にかかりつけの中央病院へ行かせました。様態はかなり深刻でした。すぐに設備の整った大学病院へ入院するように言われたのです。

父は冗談めいて「癌かもしれないなぁ」と言いました。

癌……?ドラマとかでよく耳にする、あの「癌」?…まさか…そんな…馬鹿な!?私は突然の想像もしていなかった、信じられない父の言葉にただ呆然としていました。そんなことは絶対にない!父の喉はただ腫れ物ができているだけだ、絶対そうだ、癌なんかであるはずがない!!こんな元気な父が「癌」なんかであるわけがない!!とにかく私は、押し寄せる嫌な予感をかき消し、絶対に違うとそう信じ続けていました。しかし、日増しに不安は募る一方でした。偶然、いえ、必然だったのでしょう。私の仕事先がインターネットの出来る環境だったので、僅かな希望を胸に父の様態について調べました。次の瞬間私の全身から血の気が引き、私は自分の目を疑いたくなりました。…その症状は、父のものとほぼ一致したのです。『食道がん』の症状と…。私は仕事中という事も忘れ、その場で放心しました。脳裏をよぎる言葉を必死でかき消そうとしても、もはやそれは不可能でした。「父は死ぬ…」私は『死』という存在を身近に感じ、今までに感じたことの無い恐怖感からくる全身の震えを止めることができませんでした。父の顔を見るのがとても辛く、毎日部屋で一人泣き明かす日々でした。それに父が大学病院に入院してから食欲も無く、日毎にやつれていく母が心配でなりませんでした。もし母まで倒れてしまったら私はどうすればいいのか……。母を励ましながらも私は自分が悪い夢を見ているのだと、これは現実ではないのだと、こんなことが実際に起こっていいはずがない、絶対何かの間違いだ!そう必死に思っていました。

しかし、看護婦さんからの一本の悪夢の電話が私の考えをすべて否定しました。「先生から家族の方にお話しがあります」それは父に内緒で病院に来てほしいという事でした。「お父さん、相当悪いみたい…」生気を奪われた母の声に、崖から突き落とされたような衝撃が私を襲いました。私は目を閉じることも忘れ放心状態になりました。この衝撃は実際に体験した人ではないと解らないだろう、それほど深く強いダメージを私は受けたのです。それは『地獄』などという言葉では生ぬるいとさえ思えるものでした。何も考えることができず食欲もまったく無く、眠ることもできませんでした。神様なんて本当はどこにもいないのだ。私は心底、運命を呪いました。泣いても泣いても涙は尽きることなく、そんな状況なのに仕事に行っている自分が何故だか判らずにいました。しかし、それがこれから起こる奇跡の鍵になっていたなどとは、その時は知る由もありませんでした。

それは母が父の妹(私の叔母)と電話をしている時に突然起こりました。叔母は昔から霊感が強い人で、霊の存在を身近に感じることができる人なのです。父が癌だと私達に告知される前日、叔母と母が電話で会話をしていたら『ザー…』という、この世のものとは思えない、聞いたことも無い不思議な音と共に亡くなった祖父が、叔母の声を借り母に語りかけてきたのです。《隆信は(父の名前)みんなで力を合わせて絶対に助けてやる》そう母に言ったそうです。信じられない話しですが、これは紛れもない事実なのです。母が仕事後の私の元へ、そのことを涙ながらに電話してきた時、私は驚愕しました。そして祖父の言葉の重みを噛締め、私は溢れ出す涙を止めることができずに、その場で声を出して泣き続けました。『奇跡は必ず起きる』そう確信しました。

平成12年5月3日

癌の宣告は、ドラマを見ているような感じでした。まるで他人事のようで実感が湧かず、その現実をどう捉えていいのか困惑状態でした。そのうち心臓が凄い速さで鼓動を打ち、全身が止めどもなく震えだし、母も私も座っているのがやっとでした。父は悪性の食道がんでした。しかもかなり進行している性質の悪いもので、食道をまるまると塞ぐようにできた7センチにも及ぶ癌は、気管と密着している可能性が高く、手術も不可能だと言われました。予想していた事だとはいえ、想像を遥かに絶する内容はあまりにも酷なものでした。何度も何度も呪文のように「大丈夫、おじいちゃんが守ってくれる、絶対信じてる!!」そう心の中で唱えているのがやっとでした。祖父の言葉を事前に聞いていなければ母も私も恐らく正気ではいられなかったでしょう。何よりの誤算は宣告前に父と病棟で鉢合わせしてしまったことでした。何も知らされていない父は私達を見て驚愕しました。「俺もいよいよ駄目か」冗談めいた父の言葉は、まるでこれから起こる悪夢をすべて見通しているかのような口調でした。医者に父と鉢合わせしてしまったことを話したら、本人に告知することを勧められました。しかし、母も私もそれに反対しました。母も私も初めて聞くふりをして、本人には『潰瘍』ということで改めて家族揃って説明を受けました。手術をするにも潰瘍(癌)を薬(抗がん剤)と放射線で小さくしてからではないと難しいので、小さくなってから手術をする方針で治療を進めていくという説明を受けました。手術の内容は想像を遥かに越えるおぞましいもので、私は説明の最中貧血を起こしそうになるのを必死で堪えました。それは、喉、脇腹、腹の三箇所を切開し、癌を切除し、食道の部分と管を繋いで、それを胃に繋ぐというものでした。回復にもかなりの時間を要するらしいのです。父の顔が硬直し血の気が引いていくのがわかりました。手術など絶対に父にはさせたくない!!そう思いました。

説明後、放心状態の父に母が必死で祖父のことを話しました。それを聞いた父は「本当に有難いなぁ…」と目頭を熱くしていました。そして、私は偶然見た台湾の大震災での奇跡の話しを父に聞かせました。その内容とは兄弟が震災で崩れた高層マンションの中に居て、救助の捜索で次々と死体が挙がる中、母は二人の兄弟は絶対に生きていると信じ続け、信仰している神様に毎日毎日お祈りをしていました。たまたま冷蔵庫の側で、運良くわずかな食料で何日か生き延びていた兄弟も体力精神力共に限界を超え、ついに食料も底を尽き、もう駄目だと諦めかけていた時、弟は不思議な夢を何日も続けて見ました。観音様のような方が弟に出口を教えている夢でした。弟は半信半疑でその導く方を実際に掘ってみると、ナント本当に外へ出る事ができ、兄弟は無事救助されることができたのです。その間もずっと母は兄弟が生きていると信じ、祈り続けていました。私は、その奇跡の生還のTVを見て、自分も勇気付けられたし、その話しを父にしてあげることで父を勇気付け励ましなさいと、きっと祖父が教えてくれたのだと思いました。最後まで諦めない気持ち、強い信念、ご先祖様、神様を敬う気持ちを学びました。涙声で震えながらも必死に話し続けた私、何度も何度も祖父の言葉を繰り返し励ます母、それを聞き涙ぐみ何度も頷く父。私達の長い長い闘いが始まりました。家族の愛で支え合って頑張っていけば、どんな困難も乗り越えていける。出口のない暗闇の迷路を彷徨い続けても、いつかは明るい陽の光りが射し、私達を導いてくれる。そう信じ祈り続けて今はひたすら頑張るしかないと思いました。父を全身全霊で励まし、力になってあげないといけない。私に出来ることを必死で探しました。

そして私は休むことなく仕事に行き続け、インターネットで自分なりに父の病気について、父に良いものを探していた結果、そうです、この素晴らしいホームページ『難病末期癌からの生還』の存在を知ることが出来たのです。私のこの行動もすべて祖父のお陰だと思っています。祖父が天国からずっと見守ってくれていたのです。こうして、Sarah様と知り合うことができたことで、父の命が救われたのが何よりの証です。

ゴールデンウィークに一時帰宅した父は何処となく様子がおかしく、お酒を飲みながら珍しく私に昔話を話しだしました。私は初めて聞く父の幼い頃の昔話しに、時間が経つのも忘れるほど夢中になり、それに聞き入りました。そして、二人でグラスを傾け朝まで語り明かしました。まるで、これが私と語り合える最後なのだと言わんばかりに…。私は父の心境を読み取り、心臓が潰れそうなくらい切なくなりました。祖父が助けてくれると言っていても、やはりあの説明の後では誰だって落ち込まない人はいないでしょう。ましてや、酷い自分の状況を写しだされているフイルムを見せられては…。医者は「素人には絶対に判らない」と父が説明を受ける時にフイルムを外しませんでした。しかし、それは誰が見ても大きな異物がはっきりと写しだされているものでした。それはあまりにも酷く信じ難いもので、いくら知識が乏しいとはいえ、それが潰瘍とはとても思えないものでした。「元気になったら、またいつでも語り明かそうね!絶対に大丈夫だよ、おじいちゃんが守ってくれてるんだから!」私は父の不安をかき消すように、精一杯努めて明るくそう言いました。そんな私に父は「そうだな」と微笑んでいました。 

医者から再度呼びだされたのは、父が病院に戻った後の5月12日の事でした。癌が肺に転移していたのです。何も手を施さなければ余命三ヶ月と宣告されました。心臓を鷲掴みにされた衝撃が母と私を襲いました。母と私は放心し、頭が真っ白で何も考えられませんでした。遠のきそうな意識に渇を入れ、私は以前から考えていた事を医者に打ち明けました。私は、Sarah様のホームページを見て、人間にとっていかに免疫力が大切かを学びました。民間療法等も知り、それらは化学治療や放射線治療に匹敵するほどの力があって、しかも副作用が一切ないという点で、私は断然父の身体を思うと辛くない方法をとってあげたいと考えました。祖母も胃癌で亡くなりました。抗がん剤の投与で凄く苦しみ、見ているのがとても辛くやるせない思いでいっぱいでした。しかし、当初はその副作用は免疫力が落ち抵抗力のない身体に細胞を壊す薬を投与することで免疫力をもっと下げ、健康な細胞までも殺してしまい、様々な機能に支障をきたし副作用が起こるなどと知る由もなかったので、どうしてあげることもできず無念で仕方がありませんでした。しかし、そのことを知る今、一心で医者に願い出た私が馬鹿でした。医者は鼻で笑い、私を全然相手にしてくれませんでした。

結局、相乗効果を期待するとの事で抗がん剤と放射線のWで治療を進めていく方針が決まりました。効果は上がるけれど、それだけ副作用も通常より倍きつくなるそうです。私は祖父とアメリカUCLA研究の医療機関向け免疫賦活物質A.M.Dの力を信じ、祈るしかありませんでした。すぐに父の病棟が外科から内科に移りました。外科とは違い内科の病棟は暗く重たい雰囲気に包まれていました。それだけ重病人患者が多いのです。父もその中の一員になるなんて誰が想像したでしょうか。本当に父の身体が癌に蝕まれているなどと信じ難いものでした。私服を着ていたら誰かの面会かと見紛うほど元気だからです。痩せこけることもなく、顔色も至って健康だし。だから癌がこんなにも進行していたことに気が付いてあげられなかったのです。父は人一倍我慢強く、多少のことでは根を上げない人だから余計発見が遅れたのです。でも普通なら、癌がこんなにも進行していたら痛みは当然のこと、他にもっと転移していてもおかしくはないはずです。そんな父の症状を、最小限に食い止めておいてくれたのは祖父の力だと思います。どんなことを言われても祖父の言葉を信じ続ける。私はそう心に固く誓い、目の前の悪夢を必死で払い除けました。

父の症状は病院に検査に行く半年前から出ていたそうです。その頃、風邪の一つも引かない父が頻繁に咳をしていました。きっと免疫力が激減して、風邪をこじらせていたのでしょう。その時に病院に行くことを勧めたのですが、何せ健康には自信があるものだから、それを過信していたのでしょう。その時症状を打ち明けてくれ、無理やりにでも病院に行かせていれば、早期発見でこんなに辛い思いをしなくてもすんだかもしれないと思うと無念でなりません。そして、少しでも私に今の知識が備わっていれば健康管理もきちんとしてあげて、こんな結果には絶対しなかったのに…。悔やんでも悔やみきれません。事が起きてから後悔しても遅すぎます。潔白な父がどうしてこんな目に遭うのか、世の中もっともっと苦しむべき人間は大勢いるはずなのに、父の代わりになれるものなら代わってあげたい、そう願わずにはいられません。父はどんな気持ちなのだろう?気が付いたらとても重い病気で、それは手術も出来ないほどの大きな異物が自分の身体を日毎蝕んでいる。それは確実に、急速に身体を破壊していく最悪な細胞。父はそれが何であるか、もう気が付いているはずです。抗がん剤の説明の時に自ら医者に質問していた言葉に私は耳を疑い、そして愕然としたのだから。

「抗がん剤の種類はどのようなものですか?」

自分の身体の事は自分が一番良く知っている。父の心の声が聞こえた気がしました。私は父の身体を蝕んでいる癌が心底憎らしくてなりません。そして、父が哀れでかわいそうで毎日泣きました。

いよいよ父の抗がん剤との闘いが始まります。抗がん剤が始まる二日前に届いた医療機関向け免疫賦活物質を急いで父に飲ませました。もっと前に飲ませて免疫力を高めてから抗がん剤に挑みたかったのですが仕方がありません。父の体力と奇跡を信じるしかありませんでした。最初と最後の5日間と、必要に応じて真ん中に抗がん剤の治療をして、34回の放射線治療の併用で様子を見ることになりました。しかし、この放射線が後々父に悲劇をもたらす事になろうとは、その時は誰も想像していませんでした。抗がん剤の治療がスタートし、母も私も毎日生きた心地がしませんでした。免疫力を上げるもの、抗がん作用、制がん作用のあるもの、癌に効果のあるもの等を色々探し、父に試していました。副作用は人によっては様々な症状が出るらしく、軽いもので食欲減少、熱、吐き気、口内炎、下痢、頭痛、抜け毛等が主な症状で、酷い人になると、内臓に支障をきたし、肺炎や感染症等で命を落とすケースも珍しくないそうです。免疫力が激減する為に身体に様々な支障をきたすので、とても恐ろしいものです。そんなに辛い思いをしても効果は人それぞれですが、一般的にはあまり期待できないということで知られています。その箇所でもまちまちですが、食道には殆ど期待できないそうです。でも、放射線は食道にかなり有効らしく、医者は相乗効果にかけていました。でもその治療でも父の癌が100%消える確立は0だと言われました。医者は癌が小さくなっても半分がいいところで、後は進行を抑えられればいいという感じでした。つまり、最悪のケースを取り敢えず抑えるための処置で後は運次第といった感じでした。医者は恐らく駄目で元々だと思っていたのでしょう。何せ、父の様態は最悪だったのですから、誰が診てもそう思うでしょう。説明を受けている時に医者から「覚悟はしておいてください」その、幾度となく言われた言葉に、私は心の中で「また言ってる、今に見てろ!奇跡は必ず起きるんだから!」そう呟いていました。

そして奇跡は目に見えて表われました。同じく抗がん剤投与の患者さん達はかなりの副作用に苦しんでいましたが、父は食欲が無いだけで以前と変わらず至って普通でした。ただ食事の匂いがどうしても受け付けないものがあるらしく、その匂いを嗅ぐと駄目らしいのですが、それでも頑張って少しずつ食べるよう努めていました。栄養の有る物を家から作ってきて食べさせたりしていました。本当は食べたくないのに、私達の一生懸命な気持ちを無にしないようにと無理に口にしていたのでしょう。今までなら一口で食べられる物が、食道に潜んで悪さをしている癌細胞のせいで、食事も満足に通っていかなくなってしまった食道。それに苛立ち、情けなく、惨めな自分の姿を垣間見ているだろう、そんな父が不憫で哀れすぎて泣けました。どうして父だけがこんな辛い目に遭わなければならないのか…。私は、やり場のない怒りをどうすることもできませんでした。祖父の言葉を信じ、医療機関向け免疫賦活物質の効果を信じ、毎日父を励まし続け、それでもどうしょうもない不安と恐怖は拭い去れずにいました。先の見えない未来に怯え、いつこの闘いに終止符を打つことができるのか、毎日暗闇の中を手探りで歩いているようでした。癌細胞は永遠に死滅することはない、父の身体を蝕んでいる癌は最も悪質で医者は本来このケースに置かれた患者の生存確率は、200人に1人だと言いました。1/200の確率…。それが脳裏から離れず絶望の淵に立ちながらも「奇跡は必ず起きる」ただひたすらそう信じ続けるしかありませんでした。

前半の抗がん剤の治療は白血球が下がることなく無事終えました。医者や看護婦さん達も父の何とも無い様子に不思議がっていました。しかし放射線治療が進んでいくうちに放射線を当てているところが焼け爛れ、赤くなっていき次第に喉も焼かれることにより炎症を起こし、咳が出始めたのです。風邪とは違うその喉の痛み、咳の辛さは経験した人じゃないと解らない苦しみでしょう。その症状は、後々も父を苦しめていくことになるのでした。そして、食道に潜む癌を撃退すべく放射線で焼き続けていくことにより更なる悲劇が父の身に起きていました。医者は父が免疫力を高める医療機関向け免疫賦活物質を服用していることを知らないので、通常通りのマニュアルで治療を進めていきます。私はそのことに、とてつもない不安を覚えました。そして私の不安は的中しました。放射線が効き過ぎていたのです。免疫力が上がることで治療の効果も倍増します。私は何度途中で検査を望んだことか、それでも素人の私などの意見が通るはずもありません。医者はプライドが高いから自分のやり方にケチをつけられたくないのです。私は祈る気持ちで父の治療を見守りました。次第に状況は悪化していき、前よりも食道の通りが悪くなってきたのです。途中、白血球が下がって放射線治療を1回ストップしただけで、かなりのスピードで治療を進めていきました。いくら医療機関向け免疫賦活物質を飲んでいるからといっても身体にかかっている負担は相当なものです。

途中の検査結果が出ました。絶対に癌は消滅している、そう信じ願っていました。しかし、一月足らずでそう簡単に7センチもの癌が無くなっているはずがありません。しかし、まだ癌は残っているものの半分が消えていて、肺に転移していた癌は綺麗に消えて無くなっていました。結果はかなり良好で、この調子でいくと手術は免れそうとの事で私達は安堵の溜息を漏らしました。やはり食道はかなり細くなっているらしく、それでも後から広げることができるそうなので私も一安心しました。医者はかなりの想像を上回る良い結果に、それを自分の実力の成果だと信じて興奮を隠せない様子でした。そして、これからの後半の治療に意気込んでいました。無理もありません、父のような好成績をもたらした患者は今まで過去に例が無かったそうです。私は、それは祖父と医療機関向け免疫賦活物質のお陰でもあるんだよ、と言いたかったのをぐっと堪えました。

後半の抗がん剤治療も前半と同じく副作用はまったく無く、食欲が落ちただけでした。その様子に医者も看護婦さんも驚きを隠せない様子でした。何か服用させているのかと質問されることも無く、父はただの逸材と見られていたのかもしれません。癌を小さくして手術ができるまで最低でも半年は要するといわれていた父が、わずか一月足らずで手術しなくてもいいと言われるまでに至るなんて、誰が想像したでしょうか。少しずつ、確実に暗闇の迷路に出口の光が見えてきました。「癌が完全に無くなる日は近い!」それは希望から確信へと変化しつつありました。

この頃から、父に不思議な現象が現れ始めたのです。父が一人になる空間でそれは起きました。父は、背中に電流が走るような奇妙な感覚に襲われました。しかし、何故かそれが祖父のものだと直感し、「じいちゃん、来てくれたのか」と心の中で話しかけるようにそう言うと、それは自然に消えていったそうです。父は、その現象が起きると祖父の存在を身近に感じることができ、とても安心すると話していました。私達は本当に毎日感謝の気持ちでいっぱいでした。

今まで父は何度検査をしてきたことでしょう。CT、MRI、内視鏡、レントゲン、採血、数え切れないほど辛い思いをしてきました。私も以前生まれて初めて内視鏡をやりました。正にこの世の地獄を味わう気分でした。こんな辛い検査を父は毎回毎回しているなんて…本当にかわいそうでやるせない思いでいっぱいです。放射線により焼けて傷ついた箇所が内視鏡でさらに傷が付き、毎回うがいをする度に血が出ていました。早く父をこの苦しみから解放してあげてください、お願いです。毎日そう祈り続けました。面会時間が終わるまで下のロビーで3人で話すのが唯一の楽しみでした。でも帰る私達を寂しそうに見送る父の姿は居た堪れなくなるほど辛いものでした。正直、父の前で明るく振舞っているのはとても辛いものでした。必ず助けてくれるという、祖父の言葉だけを頼りに今まで頑張ってきたけれど、信じ続けているものの、どう助けてくれるのか毎日が不安でいっぱいでした。「退院したら生まれ故郷の北海道に帰ろう、そして一からやり直そう!」新しい人生を夢見て語っていた毎日、そう希望に胸を膨らませることで今の辛さを克服し、頑張る励みにしてきました。両親の生まれ育った北海道、その自然に囲まれた大地に帰ったらきっと父の病気なんていっぺんで治る。祖父もきっとそれを望んでいるに違いない。都会の濁った空気を長いこと吸いすぎて父の身体は悲鳴を上げていたのでしょう。これから、そうこれから、父は両手に抱えきれないくらいの幸せを掴む人なのです。だからこんな所でくたばってなんかいられない!生きる、癌なんかに絶対に負けない!父は生き続けるんだ!『北海道』都会で生まれ育った私には想像できない生活だろうけれど、父の為なら今の生活を全て捨て、新しい第二の人生を歩んでも構わない。そう決心するのに時間はかかりませんでした。それが夢物語で終わらぬよう、私達は奇跡を信じ続けました。父を苦しめている癌は絶対に消えている。最後の抗がん剤治療と放射線の相乗効果、祖父の言葉、医療機関向けBRMに私達はすべてを賭けました。

しかし現実はそううまくいきませんでした。

検査結果で父の癌が1センチ程残っていたのです。私達は愕然とし、体の力が一気に抜け放心しました。最後の治療でガツンと癌を叩きのめそうと意気込んでいた医者も肩を落としました。食道がんに絶大な効果を発揮する放射線治療は34回が限度で、もう使うことができない以上、化学治療だけでは癌を消すことは難しいとされました。残る道は一つしかありません。手術です。それだけは絶対に避けたかった道です。祖父もきっとかわいい我が子が苦しむ姿をこれ以上見たくないはずです。きっと手術無しで助けてくれる、その為に医療機関向け免疫賦活物質を教えてくれたのだ。きっと早く退院して後は医療機関向け免疫賦活物質を服用させて治しなさい、そして早く冬が来る前に北海道に帰りなさいと言っているのだ。きっとそうだ。そう私は勝手に解釈しました。それが本当に正しいのか誰も教えてはくれません。私は葛藤の日々でした。医者はしきりに手術を勧めます。今のうちに残った癌を取り除いてしまえば再発は防げる。今ならその手術が可能なのだ。父は半ば手術を考えていました。しかし、手術をしてしまえば当分は動けず、身体も自由にならず第一、北海道に帰る事ができなくなってしまう。手術の日取りは一ヵ月後。どうする、どうする?手術は絶対嫌だ!父の身体が傷だらけになるなんて耐えられない!絶対に癌は消える、父は絶対に助かる。医療機関向け免疫賦活物質を飲ませている限り絶対に奇跡は起きるのだから。そう信じていてもやはり不安は隠し切れませんでした。しかし、その不安を一気にかき消す出来事が再び起こったのです。父の一番上のお兄さん夫婦(伯父とお嫁さん)と叔母が電話で話しをしていた時、再び祖父が来たのです。《隆信を元気にしてみんな(兄弟)に会わせてやる。隆信は絶対に死なせない、長生きさせてやる》その言葉で私達は吹っ切れました。奇跡は起きる、絶対に。その力強い祖父の言葉に私達はどれほど勇気付けられ、励まされてきたことか判りません。そして、Sarah様の温かい励ましがどれほど心強く、どれだけ私の励みになったことか本当に感謝してもしきれません。

父が退院したのはそれから10日後の7月31日の事です。結局、手術をすることを辞退し、様子を見ることにしました。父は、北海道の病院で手術を受けるということにして(嘘ですが)紹介状を書いてもらうことにしました。父の身体に癌はまだ残っているけれど、治療の効果が効いて暫くは悪さをしないそうなので少し安心しながらも、まだまだ気は抜けない状態でした。それでも三ヶ月振りの父の居る家は、今までお通夜のように暗く静かだったのが嘘のように明るく、とても同じ家とは思えないくらいでした。居るべき人が居ないのは本当に不自然で落ち着かないものです。今まで当たり前すぎて気付かなかった平凡な日々が、本当は凄く大切な掛替えのないものだということを改めて思い知らされました。たわいもないことで笑ったり泣いたり怒ったり喜んだり、大切な人との掛替えのない時間は永遠には続かない、だからこそ毎日を大切に生きなくてはならない。大切な人を失いかけて、そのことにやっと気が付くことができました。本当に失ってからでは遅いのです。祖父は私にチャンスを与えてくれたのです。退院一ヶ月後の検査結果で父の癌はわずか5ミリにまで小さくなっていました。そして、二ヵ月後には癌は跡形も無く綺麗に消えていました。祖父の言葉通りに、奇跡は本当に起きたのです。信じられない事実に、私達は心から溢れ出る喜び、感謝の気持ちを抑えることが出来ませんでした。結果を聞いた後、診察室から出てきたあの時の父の嬉しそうなVサインは今でも忘れません。それは辛く苦しい闘いに勝つことができた勝利者の歓喜極まる喜びの表情でした。これで北海道に帰れる。私達は新しい未来に希望で胸を膨らませました。ついに私達は辛い地獄の闘いの日々に終止符を打つことができたのだ!…そう信じていました。

しかし、私達の闘いが終わる事を神様はまだ許してはくれませんでした。更なる悲劇が再び私達を襲ったのです。

雪が降る前にどうしても北海道の大地を踏みたいと焦りすぎてしまったのかもしれません。引越しは退院後の弱った父の身体に、かなりの負担を与えてしまったようです。前の病院では、細胞は取らずに目で見ただけで診断していました。しかし札幌で細胞を取って検査をした結果、食道に癌がまだ残っていて、それが大きくなりつつあるというのです。実際目には見えなくても癌は僅かに生きていたのです。しかも、腸に小さなポリープが2つ見つかりました。私達は目の前に再び現れた悪夢にどうすることもできず、ただ愕然としました。ほんの束の間の幸せが音を立てて崩れ去り、再び暗黙の闇が私達を支配しました。癌は消滅することは無い、癌に侵された身体は一生癌と闘い続けなくてはならないのだ。目を背けたいその現実をまざまざと見せつけられ、私達の闘いが一生終わることの無いのものだという事実に打ちのめされました。そして、私達は更なる選択を余儀なくされました。手術ができる今の状態のうちに食道を切除するか、それとも抗がん剤で効果が期待できない治療をしていくか、このままでいる=ただ死を待つか、もちろん主治医は父が医療機関向け免疫賦活物質を服用していることを知りません。だから今の状態で何も処置を施さなければ、待っているのは『死』だと当然思うでしょう。私は、手術も抗がん剤もしないで自然療法にかけようと父を説得しました。しかし、それはかなり危険な賭けでした。先がまったく見えない焦りと不安と恐怖、万が一、気管に転移してしまったらもう手術も出来なくなってしまう。そうなったら最後、放射線が使えなく、抗がん剤がまったく効果が無いのなら、本当に死を待つだけになってしまう。突然癌が猛威を振るい思わぬ事態を招く可能性だって無いとは言いきれない。癌の進行や、癌の行動は検査でしか知ることは不可能だし、癌の根がある以上、ずっとそれに怯えていなくてはならない。癌とは人間の理解を遥かに超えた未知なる危険な細胞だからこそ、これからどうなってしまうのかまったく先が見えずに、私はどうしていいのか錯乱状態でした。父も癌が残っている今、不安と焦りを隠せない様子でした。これ以上の説得は無理かもしれない。主治医も手術を最優先している。父の手術を受け持つ予定であるその病院の院長は、学会でも有名でかなりの権威を持つ、消化器系の手術を全国で一番数多く手掛けている先生らしいのです。腕も確かなものだというその院長に、これはやはり手術を委ねるべきか、それとも初めから手術という運命は免れることが無く、札幌のその腕のいい院長の元で手術を受ける、そういう運命だったのか。それは定かではありませんが、放射線で焼けて細くなってしまい、水も満足に通っていかなくなってしまった父の、かわいそうな食道に潜む憎き癌を根こそぎ取り除き、そして父の不安を少しでも和らげてあげられる事ができるのならば、手術の道を選ぶしかない。そして『それが正解なのだよ』と祖父がそう言ってくれていると信じるしか他にありませんでした。

平成13年1月20日

父の病状の説明を受ける為、札幌に従兄の車で向かいました。北海道は私の想像を絶する広さでした。家から病院までの距離はかなりのもので、車で往復10時間はかかります。これでは頻繁に面会に行けない、そのことが一番の気がかりでした。前の時は毎日のように面会に行って励ますことができたけれど、今回はそういうわけにいかなくなってしまいました。家族の励ましが何より大切なもので、一番の薬だと思うからこそ、このハードルを何としてもクリアーしないといけないと考えました。手術という未知なる恐怖に震える身体を必死で押さえながら、私の心の中で一つの決断に至りました。『何があっても絶対父の側に居て応援し励まし続けなくてはいけない。家族でこの試練を乗り越えよう。』母と私は札幌に住むことを決意しました。遠く離れ不安に苛まれる日々を送るよりも、近くで父の顔を見て安心していたい。これから挑む想像以上の過酷な闘いに打ち勝つためにも、家族の愛と絆は絶対不可欠なものだと悟ったからです。そして、これを実現するのに私の従兄が調度仕事休みだったのが良いタイミングでした。そうでなければこれを実現するのはかなり厳しかったからです。これも祖父のお陰なのかも知れないと、本当に感謝し有難く思いました。
 
平成13年1月21日

いよいよ手術前日、明日の手術の説明が私達家族にされました。その内容は私の想像を絶するものでした。父の喉は放射線のせいで、かなり細胞が焼け爛れ、壊れてぐちゃぐちゃになってしまっているそうです。そのせいで、喉のリンパを切除する際にきれいに切れず、喉の神経を傷付けてしまう恐れが非常に高いと言われました。その為、声は出るけれど今まで通り普通に話すことが出来なくなると言われました。しゃがれた声になり、話すと空気が一緒に漏れて疲れてしまうので長くは話していられないそうです。まるで内緒話をしているような小さな声でしか話せなくなるそうです。それがまず一つ目の後遺症でした。私は信じられない主治医の言葉に耳を疑うしかありませんでした。歌が大好きな父は、もう歌うことが出来なくなるということに、大きなショックを隠しきれませんでした。平静を装って、「そうですか」と頷いている父でしたが、内心は愕然とし、全身から生気を奪われるかのような気持ちだったでしょう。その辛さは計り知れないものです。

二つ目の後遺症は、食事です。食道を切除し、管を繋げ食道の代わりにするという説明は、以前の病院で聞いていましたが、それとは違う内容に私は血の気が引きました。私は、癌に侵された部分だけを切除するだけで、その残った箇所に管と胃を繋ぐのだとばかり思っていました。しかし、実際はまったく違ったものでした。食道は喉の繋ぎ部分の少しだけを残してあとは全て切除してしまい、胃を持ち上げるだけならまだしも、それを骨の上に持ち上げて上から皮を被せるというものでした。つまり、肋骨の上に胃を被せ、胸の真ん中が胃で膨らんだ状態になるというのです。しかも、胃は一生胃の役割を果たさなくなるらしく、食べた物をただ通過する食道の代わりにすぎなくなってしまうそうです。もちろん消化機能が失われるわけですから、手で腸に落としてやらなければ下へ落ちていかないそうです。人によっては3年ぐらい経てば自然に流れる人もいるそうですが。しかし、大半の人達は自分で落とさなければならないそうです。もちろん食事もいっぺんには摂れず、少量を数回に分け時間をかけなくてはいけないそうです。もう二度と今までのように大口を開けて肉を頬張ったり、ラーメンを一気に食べたりすることは出来ないのです。途中詰まらせないように、消化されやすいようによく噛み砕かないといけないのです。これからは歯が胃の役割になるのだから。私は血の気が引き、貧血を起こしかけました。言葉を失うと同時に、とてつもない恐怖と絶望とやるせない怒りに襲われました。(今ならまだ間に合う、今ならやめられる、そんな恐ろしい酷いことを父がされるなんて真っ平だ、これは悪夢に違いない、今なら手術を取り消せる、どうする?どうする?どうする!?これで本当にいいの!?これが本当に正しい道なの!?本当に手術をするのが父の為なの!?おじいちゃん教えて!!!)私は必死で葛藤していました。それが正しい道なのだと、誰でもいいからそう言って安心させてほしい、私は切羽詰まっていました。人間の身体はメスを入れるようには作られていない、空気にさらしてしまうことが身体にどれだけ負担を与えることになるか、Sarah様が教えてくださったその事を思い出し、私は頭の中が真っ白になり何も見えなくなっていました。説明の最中、私の心臓は凄い速さで打ち続けていました。

三つ目の後遺症について更に主治医は話し続けました。どうしても避けて通れない一生の痛み。それは背中から胸にかけての大きな傷。魚のエラのような曲線を描いたその傷の痛みは、一生癒えることが無く鈍い痛みを父に与え続けていくのだそうです。

そして、最後のとどめの言葉が私の痛めつけられた心にさらに深く突き刺さり、それは抜くことの出来ないものとなりました。「最善は尽くしますが、万が一の時は覚悟しておいてください。絶対の保証はありません。」手術をする際の契約事とはいえ、今の状況にその言葉はかなり重いものでした。手術で癌が全て取りきれない場合もあります。その残っていた癌が後々弱った父の身体に悪さをしたら……、それに、癌が別の箇所に飛び散り命を落とす場合もあります。最悪の事態が私の脳裏を駆け巡ります。そして、堪えきれないやるせない気持ちでいっぱいになりました。どうしてこんなことになってしまったのか、すべてが憎くて恨んでも恨みきれませんでした。過去に戻りたい、こんな辛い未来が来るのだと知っていれば、絶対に同じ過ちは起こさないのに……すべてをやり直すことが出来たら……。そんな私の悲痛な心の叫びとは裏腹に無常にも時は過ぎ、着々と手術モードに入っているその現状を私にはどうすることもできませんでした。泣き出したいのを必死で堪え、私は震える声で主治医に質問しました。「父の声が変わってしまうのは絶対に避けられないのでしょうか?」父も同じことを考えていたらしく、どうしてもリンパを取らないといけないのかと私に続いて主治医に質問しました。しかし、主治医の答えが変わることはありませんでした。リンパを仮に取らないとして、癌細胞がリンパに無いかを細かく調べるのには二週間もの時間を要することになるそうです。それはほぼ不可能に近いとの答えでした。わずかな希望も絶たれ、まるで死刑を宣告されたかのような衝撃が私達を襲い、一気に絶望の淵に立たされました。本当に手術をすることが父を救う唯一の道なのか、これが祖父の助けてやると言った意味なのか、父を苦しませずに助けてはくれないのだろうか、それともこれが最終的な答えだったのか、奇跡をひたすら信じ祈り続けてきた最終結果が、この父の身体に一生のリスクをもたらす手術で幕を閉じるのであろうか。私は全てが判らなくなりました。ただひたすら信じ、祈り続けるしか成す術はありませんでした。しかし、そんな不安と恐怖の中、私はある確信を持ちました。(きっと祖父は守ってくれる、父も、父の声も絶対に大丈夫だ。手術は絶対に無事成功する、絶対に。)それは私の中で、不思議と絶対そうなるという強い確信になっていきました。不安と恐怖は拭い去れないけれど、それ以上に温かい何かを感じました。それはきっと祖父が私にくれた勇気と希望だったのでしょう。

平成13年1月22日

いよいよ手術の当日です。母と二人きりだと凄く不安で仕方がありませんが、私の従兄も立ち会ってくれるとの事で凄く心強かったです。父は私達を安心させる為に「大丈夫だ、まな板の上の鯉になってくるよ」と笑って言いました。無理に笑顔を作り私達を安心させようと頑張っている父が痛々しく、見ているのがとても辛くやるせない気持ちでいっぱいでした。父の顔を見ると涙が溢れ、私はまともに顔を見ることができませんでした。父を励ますにも溢れ出てくる涙と震える声を必死で堪えるのがやっとでした。こんな時ぐらい精一杯励ませないのか!何度も廊下に出ては天井を見上げ、溢れる涙を堪えながら自分に叱咤しました。しっかりしなきゃ!!これから父は戦場に向かうのだ、その勇姿を笑顔でちゃんと見送らないといけない。手術の時間が刻々と迫ってくるにつれ、次第に父は無口になり、表情も不安と緊張の色を隠せない様子でした。しかし、心では絶対の信頼を祖父に寄せていました。絶対に奇跡を起こしてくれる、喉も絶対に後遺症は無い、大丈夫だ。今は祖父と院長の腕を信じる。父は不安や恐怖よりも、絶対の信頼感の方が大きかったそうです。

いよいよ出陣の時間です。看護婦さんに運ばれ手術室に向かう父のその姿はドラマを見ているようでした。本当なの?本当に手術してしまうの?運ばれていく最中、差し出された父の手を必死に握りしめ何とか励まそうとするけれど、それは声にならず手術室へ運ばれる父に涙を見せないようにするのが私の努めだと必死に涙を堪えました。(頑張って!頑張って!)そう、心の中で何度も繰り返すのがやっとでした。別れ際に「頑張ってくるよ」そう無理に微笑んだ父の運ばれて行く姿に、私はいたたまれず全身から声を振り絞り、「頑張って!!」そう言うのがやっとでした。最後は声にならず涙声で叫んでいました。父が見えなくなるまで見送ると今まで抑えてきた涙が溢れ出し、それを止めることが出来ず私は壁に顔をうずめ、ひたすら泣きました。それはまるでドラマのワンシーンを体感しているようでした。

手術は予定では5時間。しかし開いても手の施しようが無ければ途中で閉じてしまうケースもあるので、私達は生きた心地がしませんでした。長い長い地獄のような時間が私達を襲いました。それはまるで永遠に続くのではないかと思うほど恐ろしく長い時間でした。父は今、必死で癌と闘っている。私達は手術が無事成功することを信じ、ひたすら祈り続けていました。そして、今までに味わったことのない不安と恐怖感を断ち切るかのように、一心不乱で千羽鶴を折り続けました。途中来て下さった伯母達も鶴を折るのを手伝ってくれ、私達を励ましてくれました。三時間が経過した頃、私はようやく少し安心しました。手術は無事進行している、すべてはうまくいっている、絶対に。その予感は的中しました。手術が予定通りの時間に終わり、無事成功したことを看護婦さんが告げました。私達は安堵の溜息を漏らし、今までの張り詰めていた緊張の糸が一気に解け、全身から力が抜けました。予定時刻が近付くにつれ、あの何とも言えず重苦しい空気、本当に生きた心地がしませんでした。正気でいられたのが不思議なくらいです。これで一安心です。ひとまず、第一段階クリアーです。

「手術は成功しました、大成功です」

主治医の笑顔とその言葉で、私達は地獄の底から救い出されました。手術後の説明で、父の食道を見せてもらい、目の前にあるその肉片が父のものだと想像し難いものでした。これが人間の食道…。初めて見るそれは私が想像していたものとは、かなり違いました。グロテスクなそれが父のものだと思うと全然気持ちが悪くなく、私は食い入るようにそれを見つめました。そして、それを見て確信しました。「手術をしないと父は助からなかった」クレーターのように焼け爛れ食道の真ん中にできた大きな真っ黒い穴、その淵にこびりつくようにできている癌。これは、いくら免疫力を上げたとしても、その根を根本から断ち切り切除しなければ父は助からなかったであろうことを、まざまざと見せつけるような酷いものでした。私は背筋の凍る思いでいっぱいでした。そして、院長はその場に居ませんでしたが、父の手術がどれほど困難だったかということが、主治医の顔を見ればすぐに分かりました。父の癌は院長が今まで手掛けてきたどの手術よりも難しく、困難なものだったそうです。癌が大動脈にへばりついていて、慎重にそれを引き剥がす作業は、手元が数ミリでも狂ってしまえば父の命は無かったというものでした。もし手術をしないでそんな危険な状態のままだったら……。考えただけで恐ろしいです。そして、何より父の強靭な肉体、体力がすべての成功を導く鍵だったそうです。出血も殆ど無く血圧も脈拍も正常で、最後まで尽きなかったスタミナこそが勝利を導いたのでした。げっそりとやつれ、クマができた主治医のその表情は、成功と勝利の喜びで溢れていました。恐らく、この先生方だったからこそ、父を救うことができたのでしょう。そして、父が闘っている側にはずっと祖父がついていて、手術の手助けをしてくれていたのだと思います。

私は高鳴る胸の鼓動を抑えることができませんでした。そして、祖父が『みんなで力を合わせて助ける』といった意味が今ようやくわかりました。最初は『みんな』とは、ご先祖様や亡くなった祖父母たちが力を合わせて、父を助けてくれるのだとばかり思っていましたが、もちろんそれも充分ありますが、生きている私達もそれに含まれていたのだということです。Sarah様をはじめ、先生方、父方の伯父夫婦達、伯母、叔父夫婦、叔母、母方の伯父夫婦と私の従兄、従姉、そのすべての人達の助けがあったからこそ、父は助かることができたのです。回復室で眠る父の寝顔を見たら、今までの不安が一気に消え去り涙が溢れ出てきました。「よく頑張ったね、偉かったよ」人工呼吸器を付け全身管だらけの父に、心から敬意を表し声をかけました。心電図を見て脈が正常に打たれているのを確認すると再び涙が溢れ出てきました。父の手に触れ、かすかな温もりを感じ取り、父が生きている事を実感しました。そして、父の勝利を治めたその勇姿をこの目にしっかりと焼き付け、短い面会の時間に幕を閉じました。

翌日、父は意識を取り戻していました。人工呼吸器が外れ、自分の力で呼吸をしている父を見ると安心しました。しかし麻酔が効いている為、意識が朦朧としている父は私達に、しきりに何かを訴えたそうに口を動かしますが、それは声にはなりませんでした。涙目の父のその手をしっかりと握りしめると、父は震える手で力強く私の手を握り返しました。そして、ゆっくりと私の手の甲に『大丈夫だよ』『薬が効いている』『声が出せない』『心配要らない』震える指でそう書きました。その声にならない指先から伝わってくる温かな言葉に胸が締め付けられる思いでいっぱいでした。私は泣きたいのを必死で堪え、何度も「うんうん」とそれに頷きました。「手術は無事成功したよ、悪いところは全部取れたよ、もう大丈夫だよ、よく頑張ったね、偉かったよ」父に涙声ながらも精一杯、激励の言葉をかけました。それに答えるかのように、私達を見つめるその父の眼差しが、今までに見たことのないあまりにも弱々しい父のその姿が、幼い頃から見てきた強靭で力強い父とは別人に見え、哀れで切なすぎて涙が止まりませんでした。今まで私達を守り続けてくれた父を今度は私達が守ってあげなくてはいけない。私は、これから始まる第二ラウンドを前に、再び頑張ることを心に強く決意しました。そして、そんな私達を応援してくれるかのように、次々と起こる奇跡をこれから目の当たりにしていくのでした。

それは、私が朝方見た夢から始まりました。それは100%に近く絶望的だった父の声の後遺症が全く無く、父が元気になって話をしているものでした。それは正夢でした。本当にそれが現実のものとなっていたのです。まだ手術のせいで、しゃがれてはいるけれど、普通に話せる父の声は喜びに満ち溢れていました。その奇跡に私達は胸躍らせ、私はその興奮を隠せずに踊りだしたい気持ちをぐっと抑えました。父の喉の神経は傷付けられることなく、リンパが綺麗に剥がされたそうです。私達は感謝の気持ちでいっぱいでした。こんな信じられない奇跡が実際に本当に起きるなんて、死んだ人の力とは計り知れないものだと思いました。正に、院長の技術と祖父の力の相乗効果だと思いました。そして、さらに奇跡は続いたのです。父は手術後2日目にして顔を洗いに、そして3日目にはレントゲン室まで自力で歩いて行ったそうです。今までに例が無いというその事に先生方も看護婦さん達も驚きを隠せなかったそうです。既に起き上がってベッドにもたれている父が、数日前まで瀕死状態だったなんて本当に嘘のようです。その時は父の回復快進撃は留まることを知らず、これからもずっと続く、そう信じていました。 

しかし数日後、父に高熱が襲いかかりました。それは何日も続いて本当に苦しそうで見ているのがとても辛いものでした。そんな父に、母と私はどうしてあげることもできず、ただ祈ることしかできませんでした。あまりにも早い父の回復に油断してしまったのです。でも、後から思えばその高熱が父にプラスだったのだと思います。手術後に高熱が出ると残っていた癌細胞も熱で死んでしまい、再発しにくい身体になると何かで知ったからです。これも祖父が起こしてくれた奇跡なのではと、そう思わずにはいられません。父は数日後には回復室から一般病室へ移ることができました。その前からも一人で歩いては病室でTVを見ていたりしたのですが、白血球が足りないのと、放射線で焼かれた喉の後遺症のせいで人よりタンが出しづらく、それが溜まってしまうと窒息する危険があるせいと、大きな手術のせいで、体内に溜まった体液がどうしても多く出てしまうのが移ることができなかった理由らしいです。しかしそれらも少しずつ改善され、ようやく一般病室に移ることができたのです。私は早く父に医療機関向け免疫賦活物質を飲ませてあげたくて、気が気ではありませんでした。それからも父は熱が出て、その後はシャックリに悩まされ、咳に苦労しました。咳をするとタンが出る分、切った箇所が痛むようで、それは見ている方も本当に辛いものでした。どうして父がこんな辛い目に遭わなくてはいけないのか…。父の姿は、一回りも二回りも小さく痩せこけ、以前の元気だった父の面影はどこにも無くそこにいるのは本当の病人でした。日に日に緩くなる腕時計をはめる父の細い腕、点滴棒を押す弱々しく力のない身体に容赦なく何本もの管が繋がれ、その管から栄養を賄っている。「今まではどこが病人だか判らないってみんなから言われてたけど、これでようやく病人らしくなったかな?」そう弱々しく笑いながら言う父に、私は泣きたくなりました。叔母は、みんなの代わりに父が一人で全部重たい荷物を背負ったのだと言いました。父だけにこんな重たい荷物など背負わせたくなかった、少しでもみんなにその荷物を振り分けて欲しい、父の重荷を私が背負いたい。どうして父だけがこんな思いをしなければならないのか…考えるだけで切なくて胸が張り裂けそうで涙が止まりませんでした。

手術から2週間後、造影剤で喉の傷がふさがっているのを確認し、父に水を飲む許可が出ました。砂漠のように乾ききった喉の辛さがどれほどのものか、2週間もの間、点滴で水分を補充していたとはいえ、それは並々ならぬ辛さだったと思います。私も以前盲腸の手術を受けましたが、たった数日間だけど水が飲めないという辛さは本当に泣けるほど辛いものでした。それが2週間ともなれば、その辛さは計り知れません。さぞCMでゴクゴク水分を飲んでいる人達が羨ましかったことでしょう。しかし、水が飲めるようになったからといってゴクゴク飲めるわけではありません。少量ずつ口に含みながらゆっくりと飲み込むのです。喉に圧力をかけない為です。最初、みんなこの作業に苦労するそうです。激痛が走る人、むせかえる人、様々らしいのですが、父は何の気なしに水を飲み込みました。そしてまた…。平然と水を飲むその姿に看護婦さんも驚いていました。そして、父を凄く優秀だと褒め称えていました。最初で父のように優秀な患者は珍しいそうです。その二日後には、ご飯が出ました。私達は驚きました。しかし、それは物を飲み込む練習にすぎないもので、無理に食べる必要のないものでした。しかし、私は父に一刻も早く医療機関向け免疫賦活物質を飲ませたくて焦っていました。それは、一週間後に控えた抗がん剤治療に打ち勝つ為です。母は、主治医に今の弱った父の身体に抗がん剤はあまりにも無謀だと言いました。しかし、再発をできる限り早めの対処で、食い止める為には今治療を行なわなくてはならないのだそうです。食道がんとは私達が想像している以上に恐ろしい癌で、再発が最も多いのだそうです。確かに最初の医者も言っていました。手術をしても再発する人が殆どで、それは一、二年でやってくると…。私は気付かないふりをしていたかったその現実を直視させられ、頭が真っ白になりました。父は小刻みに震えていました。…それが事実だとしても本人を目の前に何て酷な事を言うのだろう…。再び暗黙の闇が私達を襲いました。それと同時に、父は絶対に大丈夫だ、祖父がついてくれているのだし、医療機関向け免疫賦活物質だってあるのだから!そう自分に言い聞かせました。

しかし、現に同じ病室の患者さん達は食道がんの手術をし、それが再発した人達ばかりでした。すれ違う患者の殆どが父と同じ胸に胃を持つ食道がんの人達でした。父が患って初めて知った食道がんという病気。それにかかる人が現状、少なくないのだということも改めて知りました。多くが男性患者の中、女性がいたのには驚きました。私がもしそうなったら…そう考えたら震えが止まりませんでした。食道は他の臓器と違って症状がわかりにくい上、あまり気にかけない場所だから尚更怖いのだと改めて思い知らされました。すぐに切ることができない最も厄介な場所にあるものだからこそ、一番気にかけてあげなくてはいけないのだと思います。同じ病室の患者さん達もみんな父と同じくお酒が大好きな人達ばかりでした。やはり、お酒を飲むとご飯を食べないそうです。それが一番身体と食道に負担をかけて良くないのです。でも、いくら浴びるようにお酒を飲み続けていても、ならない人はならないのです。世の中、何て不公平なのだろう。悔しくて悔しくて仕方がありません。これも運命なのでしょうか?運命を呪うべきなのか、自分の無知さを呪うべきなのか…。無知だということは時として大きな落とし穴となり、人生を奈落の底へ落とし一生地獄を味わうことにもなり兼ねないものだと、痛いほど痛感させられました。今からでも遅くは無い、祖父がそのチャンスを私に与えてくれたのだから。私は食と栄養の重要さ、ストレスの恐ろしさを改めて認識し、これから自分が成すべきことに気が付きました。

医療機関向け免疫賦活物質を飲ませられないまま父の抗がん剤治療が始まりました。食事もままならず、機能を果たさなくなった食道の代わりの胃に、食べた物を流し入れる。まだ傷口が完全に繋がっていない為、食べ物を自分で落とすことができないので、それを看護婦さんに胃に刺した管から外に排出してもらう、そういった作業が毎回行われました。初めに食べた物は少しずつ自然に流れていくと知ってから、それをうまく利用して何とか父に医療機関向け免疫賦活物質を飲ませることに成功しました。5日間の治療で、夜喉が渇いて仕方がなかったのと、少し鼻が詰まるのを除いては他に父に副作用はありませんでした。以前の病院のデーターで父は抗がん剤に強い体と記されているらしく、それを主治医から聞かされた時には思わず笑ってしまいました。そんな体が果たして本当にあるのでしょうか?いくら強靭な体力の持ち主の父とはいえ、免疫力が低下していた状態での治療だったら?それは決して平気だったとは言い切れません。

脇腹の痛みが父を襲いました。どうしてもそれは避けられない道らしいのです。その痛みは計り知れなく、ただ判るのは一般人には想像することのできない物凄い激痛を伴うものなのだということです。我慢強い父が冷や汗をかき、トイレで蹲るほどの激痛だというのだから、これは相当なものです。それもそのはずです。肋骨の二本を外し、それを削っているのだから。これは、傷以前に複雑骨折を体内でしているようなものです。父の身体の傷を見せてもらいました。鎖骨上の喉元を横に切られ、以前のビール腹の膨らみがどこにもない、そのへこんだお腹の鳩尾からヘソ横まで切られ、背中の真ん中から右胸の下まで切られた大きな傷は、ブラックジャックのような継ぎ接ぎが成されていました。そして、肋骨の上に持ち上がった胃。身体のあちこちに刺された管の傷。それは母が目を伏せ、かわいそうで見られないという気持ちが分かるほど大きな傷です。でも、私はその傷を誇りに思います。父が闘って勝利した証なのだから。将来、いつか私に子供が出来たらそう言い聞かせてあげたい。「おじいちゃんのあの傷は勝利の勲章なんだよ、立派に闘った勝利の証なんだよ」そして、その傷を見るたびに思い返すのです。家族で闘ったこの地獄の日々を、この奇跡の出来事を。

最後の抗がん剤治療の日が迫り、いよいよ退院の目処が付き始めました。長かった闘いに終止符を打つ時が近いのです。食事も自分で落とせるようになり、父は嬉しさからか今まで以上に頑張って食事を摂りました。しかし、父の血糖値が下がり、抗がん剤治療ができずに退院も延びました。それからは毎日甘い物を持ってきて食べさせました。父は他の人よりもかなり食べられる方ですが、それでも分量が少ないのと、やはり手術という大きな負担が体にかかったせいで身体がすごく小さくなったのを改めて垣間見て私はショックを隠せませんでした。これからの食事量は以前食べていた量には満たないそうです。しかも一気に食べるのが不可能なので少量を数回に分けて食べ、自然に消化できない食道と化した胃に食べ物を歯でよく噛み砕いてやらないと途中で詰まってしまうのです。何とも不便で不快な食事に嫌気がさし、食べたくないという人が殆どらしいです。しかも、空気も一緒に飲み込んでしまう為、食べ物を落とす際、蛙の鳴き声のような「グェ~」という音がするのです。ゲップが出せないのでそれは当然の事なのですが、父は慣れないその音に不快感が生じ、食欲が失せてしまうそうです。仕方のないこととはいえ、毎回そんな音を出して食事をしないといけないのでは先が思いやられると父は自分なりに考え、そして凄い技を考案し、あみだしたのです。(^^;これは絶対特許ものです。何せ今まで例のない行動に看護婦さんも驚いていたのですから。それは、空気まで下に押しやるから音がでるのだから、それなら先に上で空気を抜いて、それから下に落としてやればいいのだ。そんな単純な発想から思いついたものでした。そうすることによりゲップは出るけれど、その不快な音は聞かなくてもすむのです。某自動車会社で提案王と賞賛されていただけのことはあります。(^^;最初、落とすのに苦労していた父ですが、日を追う毎にそれが慣れてきたのか、なかなかの手つきになってきました。同じ病室の人も父を優秀だ、凄い、超人だと驚愕と尊敬の眼差しを向けていました。同じ経験を経て来た人達の目からすれば、父のこのわずかな期間の経過が信じられないものに映ったのでしょう。父が今、こなしているすべてのことは通常の人が半年はかかることらしいのです。半年かかっても難しい人達が大半らしい行動を、父はわずか2ヶ月足らずで、いとも容易くこなしてしまったのですから驚かれるのも無理はありません。しかし、私達は驚きません。それは、すべて『奇跡』が織り成している事なのですから。そして、それを起こしているのは紛れもなく、父自身なのです。「生きる」という強い気持ちこそが奇跡を起こさせる何よりの力だと思います。そのエネルギーが強いほど奇跡は起きる、私はそう信じています。父にその気持ちがなく、諦め、堕落していくものだったら祖父も恐らく力を貸してはくれなかったでしょう。 

父の最後の抗がん剤治療が始まりました。今回は少し辛かったみたいで身体がだるいようでした。しかし、後半は少し楽になり副作用も無事でした。相変わらず食欲は無く、それでも父は頑張って食べていました。喉の検査で潰瘍だと診察され、それは一生治らないと言われていました。父の喉はあの放射線治療で生涯苦しむ事となってしまったのです。それも食道がんという憎き癌がもたらすものなのでしょうか。やはり食道がんである同じ病室の人達も父と同じように咳が出て苦しんでいました。これが食道がんになった人の宿命なのでしょうか?

父の赤く腫れ上がった喉、苦しそうな咳、これらは父を一生苦しめることとなるのでしょうか…。しかし、再検査で父の潰瘍が良くなっていると聞かされ、またもや驚きを隠せませんでした。日が経つにつれ、咳も治まるとの事で私達は一安心しました。そして、CTの検査の結果、父に異常は見られませんでした。しかし、相変わらず出る咳が退院を遅らせるのではないかと気が気ではありませんでした。それに、肺に水が溜まり200cc抜いたそうです。これは手術をしたら仕方のないことらしいのです。咳が止まれば退院と聞かされ、私達は浮かれました。父も一刻も早く退院したそうで毎日首を長くしています。それもそのはずです。後から入院してきた人達の退院を、父は今まで何人見送ってきたことか…。今度は父の番です。しかし、手放しで退院を喜ぶのも気が引けました。最後に入ってきた食道がんのおじいさんは、他の病院で手術をして声帯を奪われ、話すことができなくなってしまったそうです。その上癌が再発してしまい、そのおじいさんは小さく細い身体を丸めてヒューヒューと管で呼吸していました。その側では、おばあさんが寄り添っておじいさんの頭を優しく撫でていました。あまりにも悲しいその光景を目の当たりにし、私達は言葉を失いました。それに比べたら父は何て幸せなのだろうと思わずにはいられません。そして、日増しに病状が悪化していく同室の人達…。本当に恐ろしい病気だということを思い知らされました。

平成13年3月30日

とうとう待ちに待った念願の日がやってきました。父が退院する日が来たのです。これで本当に長い長い闘いに終止符が打てるのです。夢にまで見た日…。本当に長かったです。この一年間どれだけショックを受け、どれだけ涙を流し、どれだけ地獄のような日々を味わってきたことか…。そして、父が味わってきた苦痛は計り知れないものでしょう。しかし、私達を苦しめ続けてきた悪夢ともこれでおさらばなのです。これから私たちは人生の再スタートを切るのです。そして、私達の終わりの無い闘いの始まりでもあるのです。「再発との闘い」これが私達に与えられた、新たなる使命なのです。それを胸に、新たに復活した父をこれから家族で力を合わせて、困難に立ち向かい乗り越えていかなくてはなりません。今までの地獄の苦しみを乗り越えてくることができたのだから、父を助けてもらうことができたのだから、私達に怖いものはありません。不安は尽きることがありません。毎日が不安と恐怖と隣り合わせです。しかし、それ以上に今回のことで多くを学び、得ることができました。それをバネに立ち向かっていく勇気が私達に備わりました。 

退院した今も、父は食事や咳、寝るのに苦労し、食後にたまに襲う腹部の激痛に苦しめられています。本来、人の胃からは1分間で3ccほどずつ食べ物を消化したものを腸に送り流し、腸がゆっくり動いてそれを吸収していくのだそうです。しかし、父の場合はそのまま直通して腸に食べ物を流し入れているので、腸が順応しきれずに早く働こうとして、腸に激痛が走るのだそうです。軟らかい物なら尚更自然に落ちていってしまいます。落ちるのは有難いのですが、あまり急激に落ち過ぎて、腸の方が対応しきれずに苦しんでしまうのでは意味がありません。しかし、院長に言わせれば、痛くなるのは正常なのだそうです。人によっては腸の先端が大きくなって、胃のように物を溜めておけるようになる人もいるそうです。父の身体もそうなってくれるといいです。いえ、絶対になります!何せ父は『奇跡の人』なのですから!そして、早く思いっきり好きなものを食べられる日が来るといいです。それから、寝る時に頭を高くしないと食道と化した胃に溜まった物が逆流し、寝ている間に喉まで上がってきてむせ返ってしまい、そのせいで夜もろくに眠れないのが辛いそうです。それに、何年かしたら胃液が出てくるようになるらしいので、今以上に逆流の回数が増えてしまうそうです…。これは、どうしても仕方のないことだそうです。これは、食道がんの手術をした人の宿命なのだといいます。一生のものだという事実に、父はショックを隠せない様子でした。しかし、それでも父は決して後ろ向きにはなりません。あんなに苦しかった咳だって段々と回復し、出なくなってきているのですから。体力もそのうち回復したら普通に生活できるようになるのだし、明るい未来を見つめて前向きに頑張っています。母と私もそんな父をバックアップする為に精一杯頑張っていきたいと思います。そして、今の幸せをずっと守り続けていきたいと思います。地獄のような苦しみから抜け出し、凍てついた北海道の大地の雪も溶け、草花が芽を出し、自然の息吹が聞こえてくるこの地でならきっと大丈夫です。この、祖父が愛した北の大地に帰ってきたのだから。家族で過ごす当たり前の日常がこんなにも愛しく、こんなにも掛替えのないものだと気が付かせてもらった今、みんながくれた奇跡を噛締め、感謝の日々を忘れないよう、そして今回の辛く地獄のような体験をいつまでも忘れることのないよう、今現在、辛い思いをされている多くの人達の少しでも励みになり勇気付けることができればと、今回私の奇跡の体験談を書き記しました。 

本当に、どうしてこの世に病気など存在するのか…、せっかく生まれてきても一度きりの人生なのに、そんなものと闘い苦しむ為に生まれてくるのなら意味が無いです。それも運命だと割り切ってしまえばそれまでですが、それでも本当に悔しくてなりません。目には見えないけれど、今も私達の体内では癌細胞は生まれています。そして、それを打ち消すために細胞同士が私達の体内で日夜休むことなく闘いを繰り広げているのです。いつ何時、癌細胞が勝利し私達の体内で増殖するかわからないのです。そう考えると本当に恐ろしく憎らしい存在です。しかし、日頃からきちんと自分達の身を守る武器を持っていれば、癌は決して恐ろしいものではないのだと思います。日頃の健康管理、健康を守る為の知識、これこそが一番の武器なのだと私は思います。

どのようなことがあっても決して信じ続けることをやめないで下さい。希望を捨てず、諦めなければ奇跡はきっと起こります。ご先祖様を敬い、常に感謝の気持ちでいることがとても大切な事だと私は思います。そして、何より家族の強い絆こそが勝利へと導く鍵だと思います。私のこの体験談を読んで頂いて非科学的だと、信じられなければそれでもかまいません。だけど、私達もいずれは死ぬのです。そして子孫が残れば必然的に「ご先祖」になるのです。 

最後になりますが、このような私の不束な長い長い体験談を最後まで読んで頂きまして本当にどうも有難うございました。そしてSarah様には本当に本当にお礼の申し上げようがありません。この奇跡の体験ができたのも、Sarah様、天国で見守り続けてくれている祖父母、父方の伯父夫婦、叔母、叔父夫婦、伯母、母方の伯父夫婦、私の従兄、従姉、本当に皆様方のお陰です。本当に感謝してもしきれません。本当に本当にどうも有り難うございました。

この場をお借りして厚く御礼申し上げます。

平成13年6月 鈴木 久美子
 

『食道がん末期』医者より余命三ヶ月と告げられた私が、その癌を克服し回復に向かっている今、何故これまでになれたのか?それは強い絆で結ばれた『家族愛』があったからこそではないかと私は思います。 


家族には黙っていましたが、自分は初めに受けた検査で『癌』ではないかと思っていました。検査を受けた、そこの病院の院長とは古くからの知り合いで「もし食道癌にでもなっていたら香典を早く貰っておいたほうがいいかもね」「そうだなぁ!」などと冗談を言いながら診察を受けていました。しかし、検査中内視鏡を除いている院長の顔が次第に強張り始め、「おいおい、冗談じゃ済まなくなったよ」そう言いました。

説明されるフイルムを見ると、食道に5センチほどの長さの腫れ物ができ、内視鏡のカメラがやっと通るくらいの狭さになっていました。院長の顔から笑みが消え「設備の整った大きな病院ですぐに検査したほうがいい」病名こそ言いませんでしたが慌てた様子でそう言った院長を見て、私は自分の症状が相当酷いものだと悟りました。「癌」。それもかなり進行しているのだと…。この事は、人一倍気にする身体の弱い妻とかわいい我が娘には言い出せずに、自分の中に留めて置きました。考えると次第に恐怖が襲い夜も眠れなくなっていきました。
 
その後、紹介状とフイルムを渡され、大学病院に入院することになりました。病院での説明で、私の想像を遥かに超えた身体の酷い状態に愕然としました。亡き父が助けてくれると言っていたけれど、一体どのようにして助けてくれるのか、私を本当に救ってくれるのか、私は藁をも掴む思いでいっぱいでした。『父が助けてくれる』そう思うと絶対治すという強い信念と、自分の持ち前の体力を信じ、癌に立ち向かっていこうという思いで、力が湧いてきました。毎日、一時間半もの道のりを欠かすことなく、私を励ましに病院まで足を運んで来てくれる妻と娘の存在はとても大きいものでした。しかし、自分のことよりも妻の日に日にやつれていく顔を見ると、そちらの方が気掛かりでなりませんでした。抗がん剤治療が始まる前に娘が見付けてくれた、この医療機関向け免疫賦活物質がその時は何なのか全く判りませんでしたが、とにかく娘の言う通り服用し始めました。妻と娘の二人で頑張って折ってくれた千羽鶴には、言葉で言い表せないほど感激しました。温かい家族の温もりが身に染み『家族の為にも頑張らなくてはいけない』という思いでいっぱいになりました。妻が具合の悪い時、兄の次女(利得さん)には大変お世話になり千羽鶴折って頂く等、とても励まされ頑張る意欲が湧きました。

そして、中間の検査結果では驚くほど癌が小さくなっていました。これも医療機関向け免疫賦活物質を欠かすことなく服用していたからだと思います。この分だと治療が終わる頃には手術もせずに済むのではないかと思っていました。治療はすべて終わりました。今回も抗がん剤の副作用が一切無く、これも服用している医療機関向け免疫賦活物質の効果によるものだと思いました。しかし最終検査の結果、癌はまだ残っていました。私は、肩の力が抜け何も考えることができませんでした。先生は再三に亘り私に手術を勧めてきましたが、私達は退院したら北海道に帰ると決めていましたので、先生にその旨を伝え北海道の病院を紹介してもらうことにしました。その後、無事退院の運びとなりました。北海道に帰るまでに行った検査では綺麗に癌が無くなっていました。これで手術をしなくても済む、その時ほど嬉しかったことはありません。その事をいち早く妻と娘に知らせ、一緒に喜びを分かち合いたいと思いました。何よりもこれまでになったのは、免疫力を高める医療機関向け免疫賦活物質と亡き父のお陰だと思います。

35年振りに生まれ故郷の北海道に帰り、私の第二の人生が始まりました。引越しをして少し落ち着いたので『癌が消えていたのだから大丈夫だろう』という安心した気持ちで札幌に検査を受けに行きました。しかし前の病院でのデーターを見て、院長の顔は強張り険しい表情になりました。「詳しい検査をしますので10日ほど入院してください」と院長に言われ驚きましたが、それは私の癌が相当酷いものだったからだろうと思いました。入院した病室の人たちは食道がんの人達ばかりで、みな歳を召した人達ばかりでした。私は手術をした人の身体を見て驚きました。胸の真ん中が盛り上がり、胸から背中にかけて、腹部にも及ぶ大きな傷跡。それは、あまりにも酷いものでした。そのようなものを見せられ、私は『絶対に手術などしない!!』と心に決意しました。万が一、手術をしなければならない状態になっていたら…私はそう考えると背筋が凍り、身体の震えが止まりませんでした。
 
検査結果の説明は私の姉にも同行してもらい、一緒に聞いてもらいました。私の身体の中にはまだ癌が残っていました。私は愕然としました。あれだけ綺麗になっていたはずの癌がまだ残っていた…。姉は治療で治す方法について主治医に質問しました。しかし抗がん剤単独では治療の効果が無く、放射線との併用によりはじめて効果が得られるのだが、私の場合は限界まで放射線を当ててしまったので不可能との事でした。私は治療だけなら地元の病院でもできると考えていましたが、癌が気管に転移したら手術の施し様が無く、後は死を待つしかないと言われました。残された道は手術しかありません。私はその言葉に動揺を隠せず、すぐに即答することができませんでした。『私には医療機関向け免疫賦活物質があるのだから!』と思いながらも不安は募る一方でした。その後姉と二人で話し合い、姉は手術が一番安全なのかもしれないと言いました。その言葉に私は、気持ちが揺らぎました。しかし、病室での手術した人達の姿を見ると…決心が鈍り迷いました。全部悪い所を取ってしまえば、他に転移することは無いとの主治医の言葉を思い出し私は手術をする決意をし、その事を電話で家族に打ち明けました。妻も娘も動揺とショックを隠せない様子でしたが、私の説明で納得し手術に同意しました。
 
入院の日程が決まりました。札幌には入院の3日前に行きました。それは、手術によって好きな酒が飲めなくなるし、好きなカラオケが歌えなくなってしまうので、この際それを充分に堪能しようと思ったからである。友人宅では手術の成功の前祝いと大変な持て成しに預かり、上等な酒と最高級の肉等をご馳走になり、またカラオケも満喫しました。これでもう思い残すことが無く、安心して手術に望むことができる。「手術の成功はお前の気持ち次第だ!絶対に成功させるんだという気持ちになれ!手術は絶対に成功する!俺は信じてる!!」友人よりその激励の言葉を貰い、私はそれに答えるように病院へと向かいました。

手術の説明は家族と一緒に聞かされました。説明の時に後遺症で、声がかすれたようになってしまうと聞かされた時には愕然としました。もう大好きなカラオケができなくなってしまうと思うと、いっそのこと手術を放棄してしまおうかとも思いました。しかし、亡き父の言葉を思い出しました。そして『手術を成功させ、声は絶対に出せるようにしてやるから、だから安心して手術を受けなさい』と、父が私にそう言ってくれているように思いました。父が見守っていてくれていると思うと、『よし!手術をしよう!』と私は手術の決心がつきました。手術当日、家族に見送られ亡き父の事を思いながら手術室へ向かいました。手術室に入り脊髄に麻酔の管を通す為に身体を曲げるまでは意識がありましたが、その後はもう何も判らず、私はただ深い眠りに落ちていきました。意識が戻った時、麻痺し痛みを全く感じませんでしたが、私の全身は管で覆われていました。側では妻と娘が心配そうに憂いな表情で私を見守っていました。そして、妻と娘より「お父さんが退院するまで、札幌に住んで毎日お父さんが元気になっていく顔を見に病院へ来るよ!」そう言われ、私は驚きました。口では「大変だから無理するなよ」と言いながらも、私の心は感謝の気持ちでいっぱいでした。そして、そのことが私のどれだけの励みになったことか判りません。私はこの時ほど強い『家族愛』を感じたことはありませんでした。手術は大成功に終わり、私の声も以前同様に出せることができ、私は心の底から有難く思いました。「私は年間、百人以上もの人達の手術を手掛けている」そう言っていた院長の自信溢れた言葉を思い出し、さすが名医であると実感しました。やはりこれも父が見守っていてくれ、その名医である院長と巡り合わせてくれたのも父のお陰だと思うと、本当に感謝せずにはいられませんでした。
 
手術後は高熱、咳、また脇腹の開いた箇所に痛みが生じる等の苦痛と食事の際の苦労はありましたが、抗がん剤の副作用も生じる事無く済みました。食事の摂り方等に工夫を凝らすことで不快感も解消させていくことができました。この事を同じ部屋で苦労されている人達にアドバイスしてあげることにより、とても喜んで頂ける事ができました。私の身体に付いていた点滴などの管も一本二本と外されていき、残り一本となった時には他の病室にも顔を出すことができるようになりました。食道がんで私と同じ立場の人達や、手術を目前に控えている人等もおりました。やはり、手術を控えている人はかなり不安があるのでしょう、私に色々と質問してきました。私は自分の体験の中から、できるだけ詳しく、しかも不安にさせぬよう説明をしてあげた所、とても安心した様子でした。退院日も近付き、退院後の説明がありました。私は定期検診を最寄りの病院で診てもらおうと思っていましたが、主治医は「遠くから通うのは大変かと思いますが、鈴木さんは院長に診てもらう事になります」と言われ正直戸惑いましたが、私の病状が今までに無いほど酷いものだったので、院長が最後まで私が責任を持って診たいという事に、遠い道のりだけれど私はその方が安心だと思い承諾しました。

いよいよ嬉しい退院の日です。1年近くにも及ぶ癌との闘いは本当に大変な日々でした。そして、更にこれからは『再発』との闘いが始まるのです。「食道がんはいつ再発してもおかしくない病気、自己管理をどのようにしていくかがポイントだ」入院中、主治医や部屋の人達に聞かされたその言葉に私は戸惑いと不安を隠せませんでした。しかし、幸い私には妻と娘という心強く頼もしい二人の看護婦がついています。1日600cal.点滴による栄養を補充しなくてはなりません。それを二人の看護婦は栄養とカロリーを考えた食事により、私を回復に向かわせてくれています。本当に大変な事で有難く思っています。札幌に居る私の姉には、常に励ましの言葉を頂き勇気付けられ、お世話になりました。また、私が手術をした時から退院するまで、一日たりとも休む事無く面会に来てくれ、絵葉書を書き私を励まし元気付けてくれた娘には本当に頭が下がります。本当に有難う!それから妻と娘、そしてみんなで折ってくれた千羽鶴には、大変嬉しく勇気付けられました。

私を本当に助けてくれた亡き父、そして娘に対し常に励ましの言葉、助言を頂いたSarah様には、出来る事なら会ってこの奇跡の喜びと多大なる感謝の気持ちを伝えたいです。そして私の兄弟夫婦、妻の兄夫婦、姉夫婦、親戚の方々、また友人には励ましの言葉、ご厚情を賜り本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

大変至らない文章の数々となりましたが、私は『奇跡』を信じ『自分自身』を信じ、苦難に立ち向かってきました。私と同様、癌により苦しんでおられる方、そして、今『再発』というまた新たな闘いに挑まれている方、決して生きる希望を捨てないで下さい。諦めなければ、必ず道は開けます。立ち向かう勇気を持ち、そして自分自身を信じてください。

平成13年6月 鈴木 隆信

平成12年4月から13年4月までの1年間、私達にとって言葉では言い表すことができないほど、辛く切なく悲しいそれは大変な毎日でした。主人が食道がんと宣告されてから、今思えば毎日どのように過ごしてきたか判らないくらいです。

主人が大学病院に入院して検査の結果がでて、看護婦さんから電話があった時私は目の前が真っ暗になって血の気が引き、震えがきて立っていられなくなりその場に座り込んでしまいました。検査の結果を聞きに行く前の何日間かは何も考えられず、力が抜けて食べる事も眠ることもできず、本当に辛い毎日でした。亡き義父の言葉を聞いた時は、溢れ出る涙を抑える事ができませんでした。亡き義父には感謝しても感謝しきれません。札幌の病院で手術をしなければならなくなった時、主人がかわいそうで手術を、させたくありませんでした。でも手術が終わって先生に手術の経過を聞き摘出した食道を見せてもらった時、主人は手術をしなければ助からなかったと痛感しました。大学病院と札幌の病院に面会に行った時、娘と私は努めて明るく振舞っていましたが、それはとても辛く切ないものでした。そんな時側にいて励まし、勇気付けてくれ、私の心の支えになり力になってくれたのは娘でした。娘がそばにいてくれたお陰で、主人も私も元気になれました。娘には、本当に感謝しています。

娘がインタ-ネットでSarah様が作成しているホームページを見つけ、医療機関向け免疫賦活物質A.M.Dを教えていただき主人は助かることができました。Sarah様は本当に主人の命の恩人です。感謝しても感謝し切れません。本当にどうも有り難うございました。娘の言う通り、本当にこれは主人の亡き父が教えてくださった奇跡だと思っております。
 
Sarah様を始め、主人の亡くなった父、主人のお兄さん夫婦達、お姉さん、弟さん夫婦、妹さん夫婦、一番上のお兄さんの次女利得さん、私の兄夫婦、兄の次男隆夫さん、皆様には言葉で言い表せないほどお世話になり大変ご心配をおかけ致しました。また主人の三番目のお兄さん、私の姉夫婦、親戚の方々にも大変ご心配をおかけ致しました。心から感謝の気持ちでいっぱいです。

本当に有難うございました。

それと主人の妹、富子さんにはどれほど私の心の支えになっていただいた事か知れません。富子さんがいなければ、主人の亡き父の言葉も判りませんでした。辛い時、悩んでいる時、どれだけ私の心の支えになり、励ましてくれたことか判りません。本当に言葉で言い表せないほど感謝しております。有難うございました。

癌は決して助からない病気ではありません。主人と同じ病気で苦しんでいる方達も、決して希望を捨てずに頑張ってください。 


平成13年6月 鈴木 恵子

 

皆さんからご質問の多い
「医療機関向け免疫賦活物質A.M.D」の詳細については
以下ページに情報をまとめてあります。
ご参考になさって下さい。
父や同級生、末期癌を完治させた皆さんが使用した
医療機関向け免疫賦活物質や医療補助用酵素について